天海和尚の正体は明智光秀だった!?という都市伝説

明智光秀は有名な戦国武将ですよね。織田信長の家臣でありながら、本能寺の変を起こした首謀者としてはあまりにも有名です。

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それに対して、天海和尚(南公坊天海)と聞いてもいまいち分からない方が多いかと思います。天海和尚は、人生50年の江戸時代において、なんと107歳まで生きた僧侶です。

実は「この天海和尚は明智光秀なんじゃないか」という都市伝説があるんです。

でも明智光秀って、本能寺の変を起こしたすぐ後に豊臣秀吉によって葬り去られているはずです。なぜ、天海が光秀という噂がでてくるのでしょう。理由は山崎の戦い(光秀vs秀吉)で光秀は死んでいなかったと言われているからです。

その証拠に光秀の遺体は見つかっていません。農民の竹やりに突かれて死んだとされていますが、実際には逃げのびて比叡山でひっそりと暮らしていたと言われているんです。その後、明智光秀の名を捨て、南公坊天海として歴史の舞台に戻ってきたと言われているんです。

その証拠となるものもいくつか見つかっています。

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1つ目は産まれた年です。
2人とも諸説ありますが、1540年ごろに生まれたのではないかと言われています。

2つ目は「慈眼」です。
光秀の木像と位牌のある寺「慈眼寺」という名前と、天海の諡名「慈眼」が同じということ。

3つ目は寄進日の日付です。
比叡山の松禅寺に、光秀が寄進した石灯籠が今でもあります。この寄進日は慶長20年となっています。慶長20年とは西暦にすると1615年です。光秀は1582年に亡くなっているはずなのに、おかしいですよね。

4つ目は徳川将軍の名前です。
天海和尚は、徳川家と密接な関係を築いています。そして徳川将軍の名前の中に光秀の文字が入っているのです。2代将軍徳川秀忠・3代将軍徳川家光。ほらね。

5つ目は桔梗紋です。
天海は家康から日光東照宮の光明院を再興するように言われます。日光東照宮は徳川家康のお墓として有名ですが、天海とも関係のあるお寺だったんです。その日光東照宮には、明智光秀の家紋である「桔梗紋」が多数あることも分かっています。家康や天海と一切関係のなかった明智光秀の家紋があるのは不思議じゃありませんか?

6つ目は明智平です。
日光東照宮の近くに「明智平」という場所が現在でも残っています。これは天海が命名したと言われています。天海が明智の名を残したかったからなのでは?と疑いたくなってしまいます。

7つ目は春日局の言葉です。
光秀の家老の娘である春日局は、天海と初見だったにもかかわらず「お久しぶりです」と声をかけたと言われているんです。そして春日局は、3代将軍徳川家光の乳母にもなっています。

8つ目は筆跡です。
テレビ番組で、光秀と天海の筆跡鑑定をするという夢の企画がありました。その結果「同一人物の可能性が高い」との結果が出ているんです。

これらの理由から、天海和尚の正体は明智光秀なんじゃないかとの都市伝説が生まれました。

不都合な歴史は時の権力者によって揉み消されます。当時の権力者、徳川家康なら光秀の正体を隠し、天海として表舞台に復活させることもできたのかもしれません。

信じるか信じないかはあなた次第です。それにしても、この時代に107歳まで生きたって凄すぎですよね。

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